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東京高等裁判所 昭和53年(ネ)1705号 判決

控訴人 甲野太郎

右訴訟代理人弁護士 中津市五郎

同 中津靖夫

同 澤井英久

被控訴人 乙野花子

右訴訟代理人弁護士 鹿島恒雄

主文

一  控訴人は被控訴人に対し、金三〇〇万円及びこれに対する昭和四九年一一月二六日以降完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。

二  被控訴人のその余の請求を棄却する。

三  訴訟費用は第一、二審を通じてこれを三分し、その一を控訴人の負担とし、その余を被控訴人の負担とする。

四  この判決は、一項に限り、仮に執行することができる。

事実

被控訴代理人は、当審において、原判決がその一部を認容した請求について訴えを取り下げ、従前の予備的請求により、「控訴人は被控訴人に対し金一三〇〇万円を支払え。」との判決を求め、控訴代理人は「被控訴人の請求を棄却する。」との判決を求めた。

当事者双方の主張は次のとおりである。

一  被控訴人の請求原因

1  被控訴人は、昭和三三年二月二四日控訴人と婚姻したが、昭和四九年一一月二五日協議離婚した。

2  右離婚は、控訴人の責に帰すべき事由によるものである。すなわち、控訴人は、(一)被控訴人と結婚当時すでにA女と情交関係があり、同女との間に一女をもうけ、昭和三三年三月までその関係を続け、(二)昭和三九年西ドイツに出張中、B女とたびたび情交関係をもち、(三)昭和四〇年八月C女と情交関係を結び、間もなく同女を妾として囲ったうえ昭和四六年八月まで同女のもとに入り浸り、その間、昭和四一年一〇月一三日女児エミをもうけ、昭和四四年一〇月二三日同女児を認知し、(四)右C女との関係継続中D女と情交関係をもち、(五)更に、昭和四五年E女と知り合い、遅くとも昭和四九年九年ころ情交関係に入り、仮にそうでないとしても、情交関係を疑わせるような言動をし、同年一一月控訴人と別居後直ちに同女と同居したもので、控訴人の以上の度重なる不貞、不誠実な行為が、控訴人に対する被控訴人の信頼を失わせ、婚姻の維持を困難にし、被控訴人をして協議離婚の止むなきに至らせたものである。

3  被控訴人は、右のような控訴人の責に帰すべき事由による婚姻生活の破綻により、精神的苦痛を被ったから、控訴人には被控訴人に対し、右苦痛を慰藉する義務があり、その慰藉料は一三〇〇万円が相当である。

4  よって、控訴人に対し一三〇〇万円及びこれに対する離婚の日の翌日である昭和四九年一一月二六日以降完済に至るまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める。

二  控訴人の答弁

1  請求原因1は認める。

2  請求原因2のうち、控訴人が、A女と情交関係があり、同女との間に一女をもうけたこと、B女、C女、D女とそれぞれ情交関係をもち、被控訴人主張のとおり、C女との間に女児エミをもうけ、同女児を認知したことは認めるが、その余の事実は否認する。被控訴人は右の女性関係について控訴人を宥恕したのであって、離婚は控訴人の責に帰すべき事由によるものではない。

3  控訴人とA女との関係は、被控訴人との結婚前のことで、結婚当時すでに解消されており、被控訴人は、右事情を十分諒解し、これを宥恕して結婚したものであり、控訴人とB女との情交関係は昭和三九年中に、D女との情交関係は昭和四二年中にそれぞれ一度あっただけで、これらについても被控訴人は、その後離婚まで永く続いた平穏な婚姻生活の中で宥恕したものである。また、控訴人は、昭和四六年C女との関係を絶ったうえ同女を相手方として調停の申立をしたが、右申立は被控訴人の勧めによるもので、その際、被控訴人は、控訴人とC女との間の女児エミを引き取りたいとの意向を示し、その後は、夫婦関係も概ね平穏で、幸せな家庭生活が続いていたのであって、被控訴人が控訴人のC女との関係についても宥恕していたことは明らかである。

離婚の真の原因は、被控訴人の信仰上の逸脱その他の生活態度にある。すなわち、被控訴人は、控訴人の勧めで結婚後間もない昭和三三年八月一四日洗礼を受けてカトリック信者となりながら、昭和四〇年ころ創価学会に入信し、家庭を放置して同会の活動に熱中し、控訴人とののべ五〇〇回以上にもわたる宗教論争によっても改心しないで、宗教的裏切り行為をし、また、価値観の相異から控訴人の人生目標を理解しその達成に助力するという姿勢がなく、さらに、控訴人に無断で不動産を購入して家計を圧迫し、控訴人宛の書信を平然と開封し、これらのことが夫婦間の不和を惹起し婚姻生活を破綻させたのであり、しかも、控訴人が離婚を考えるようになったのは、被控訴人が、昭和四九年一一月六日控訴人に対し離婚を申し入れ、被控訴人の署名押印をした離婚届書を手渡したことに始まるのであって、控訴人は、そのころ離婚の意志は全くなく、その後約二〇日間それまでの婚姻生活を改めて省みたうえ、やむなく離婚を決意するに至ったのである。

《証拠関係省略》

理由

一  被控訴人と控訴人が、昭和三三年二月二四日婚姻し、昭和四九年一一月二五日協議離婚したことは、当事者間に争いがなく、《証拠省略》を総合すれば、次の事実を認めることができる。

1  被控訴人は、長崎市在S病院に看護婦として勤務していた昭和二七年九月ころ、肺結核の療養のため入院していた控訴人と親しくなり、控訴人が昭和二八年四月東京都小金井市在O病院に転院し、更に、昭和二九年五月ころT病院に転院した後も、控訴人と文通を続けていたが、昭和三二年四月東京外国語大学に入学した控訴人から同年八月ころ結婚を申し込まれてこれを承諾し、上京して日赤病院に勤務しその寄宿舎に居住した。

2  被控訴人は、上京した当時、控訴人から、T病院に入院中知り合った同病院看護婦A女との同棲を同年春ころ解消したが、同女が妊娠中(同年一二月に女児を出産)であると聞かされ(控訴人が、同女と情交関係があり、同女との間に一女をもうけたことは、当事者間に争いがない。)、一時結婚をためらったが、同女との関係を清算したとの控訴人の言を信じ、昭和三三年二月九日結婚式を挙げ、同月二四日結婚届出を了し、その後、両者の間には、同年一二月一七日長男一郎、昭和三六年五月三一日長女初枝、昭和四二年七月三〇日次男二郎が出生した。

3  控訴人は、昭和三六年三月東京外国語大学フランス語科を卒業した後、昭和三九年まで日本交通公社の嘱託として通訳や案内業務に従事し、その後日本海外旅行株式会社に入社して同種の業務を担当していたが、業務上海外出張を繰り返しているうち、同年四月ころ西ドイツの旅行社女子従業員のB女と知り合い、昭和四〇年初めころまで親しく交際を続け、その間少くとも二度情交関係をもった(控訴人が同女と情交関係をもったことは、当事者間に争いがない。)。被控訴人は、右の関係を控訴人から聞いて知ったが、これを理由に格別控訴人を責めるというようなことはなかった。

4  控訴人は、在学中からダンスに興味をもち、就職後ダンスに関する評論などを雑誌に寄稿していたが、昭和四〇年ころから、競技ダンスで控訴人とパートナーを組んだことのあるダンス助教師のC女と親しく交際するようになり、その後同女と継続的な情交関係をもち、同女との間に、昭和四一年一〇月一三日女児エミをもうけ、昭和四四年一〇月二三日同女児を認知し(控訴人が、C女と情交関係をもち、女児エミをもうけ、同女児を認知したことは、当事者間に争いがない。)、その間、C女のため、ダンス用品輸入の資金を融資し、また、相当額の生活費、教育費を支出した。被控訴人は、控訴人の言動や控訴人あての同女の手紙から、右の事情を知ったが、あえて事を荒立てることをせず、昭和四六年八月ころ控訴人に対し、同女との関係を解消するよう求めてそのための調停申立を勧め、その結果、控訴人は同女を相手方とし東京家庭裁判所に婚姻外関係解消の調停を申し立て、以来同女との関係を絶つに至った。右調停は、同女の態度から成立の見込みがなかったので、控訴人はその申立を取り下げたが、その後、同女からの申立に基づき、同裁判所において昭和四八年三月一三日婚姻外関係解消、解決金及びエミの養育費支払いなどの調停が成立した。

5  右のほか、控訴人は、昭和四二年ころ出張先のニューヨークにおいて、同市在住の人妻D女とダンスを通じて知り合い、同女と情交関係を持ったが(情交関係の点については、当事者間に争いがない。)、その後、同女からの控訴人あての手紙により被控訴人に右関係を察知されたことから、一時被控訴人との間に不穏の空気が漂った。

6  控訴人に前示のような女性関係があったにもかかわらず、被控訴人が特に控訴人を責め立てるということをしなかったため、これにより夫婦間に多少の波風が立つことはあっても、深刻な不和対立が生ずることはなかった。また、被控訴人が、昭和二四年八月以来カトリック教徒である控訴人の勧めに従い、結婚後間もない昭和三三年八月カトリックの洗礼を受けながら、昭和四一年ころ創価学会に入信したことから、夫婦間に宗教上の意見の対立が生じ、一時的に不和の生ずることもあったが、婚姻を破綻に導く程のものではなく、婚姻生活はおおむね平穏であった。

7  被控訴人は、昭和四九年九月中旬控訴人の手帳により、控訴人がそのころ連日のようにE女と会っていることを発見したが、同女は、昭和四六年三月控訴人が通訳、案内人として随行したヨーロッパ団体旅行に参加した女性で、被控訴人も当時控訴人から同女の写真を示され、その後、同女あての年賀状を代筆したこともあって、その氏名だけは知っていた。被控訴人は、控訴人の女性関係についての過去の言動に照らして、控訴人とE女との不貞を疑ったが、同月二九日右について控訴人を難詰したところ控訴人から暴行を受け、翌三〇日子供の運動会の付添いを頼んだところ控訴人が中途でいなくなり、また、そのころ、控訴人の遅い帰宅や朝帰りが度重なったので、午前三時ころ控訴人の手帳から見当をつけた帝国ホテルに電話し、第三者を装い控訴人夫婦の宿泊の有無を問い合せたところ、宿泊しているとの回答を受けたのみならず、その室につながれた電話で応答したのが女性の声であった等のことから、被控訴人の疑念は殆んど確信にまで達し、感情の赴くままに、同年一一月五日ころ同日付で、離婚届出用紙に、控訴人関係事項欄を除くその余の欄の該当事項を記入し、被控訴人の署名押印をし、同月一〇日(第二日曜日)早朝五時ころ帰宅した控訴人に対し、真実離婚する意思があったわけではなく、内心控訴人の反省の楔機となることを期待して、右離婚届書を突きつけその署名押印を求めた。

8  控訴人は、右離婚届書を自宅に放置したまたま翌日から関西に出張し、帰宅後、被控訴人に対し、子供の養育等について話し合ったうえで離婚しようなどといっていたが、同月一五日朝出勤したまま帰宅せず、翌一六日早朝、E女宅を訪れ、以来同女方に同居し、同月二五日被控訴人に事前に知らせることなく離婚届書を府中市長に提出した。

9  被控訴人は、前示のように離婚の意思はなく、したがって、被控訴人の離婚に応ずる旨の発言も真剣に受けとめず、控訴人が帰宅しなくなった後も、控訴人の勤務先に電話したりして、帰宅を促したが、控訴人は、一向帰宅する様子もなく、同月二六日被控訴人と喫茶店で会い、更に帰宅を求められた際も、当座の生活費として一五万円を被控訴人に交付したのみで帰宅せず、そのうえ、前日離婚届出をしたことも被控訴人に秘してこれを告げなかった。

10  被控訴人は、その後の控訴人からの電話で、予期に反して控訴人が離婚届出をしたことを知って驚いたが、なお控訴人との復縁に望みをかけ、その旨の手紙を再三控訴人あてに出し、また、婚姻届用紙に被控訴人関係事項を記入し、自ら署名押印をしてこれを控訴人に手渡し、更に、被控訴人の姉も、控訴人あてに被控訴人との復縁を懇請する手紙を出したが、控訴人は、これに応せず、昭和五〇年三月二八日E女との婚姻届出をした。

以上の事実が認められ(る。)《証拠判断省略》

二  右認定事実によれば、被控訴人と控訴人との婚姻生活は、控訴人の度重なる不貞行為にもかかわらず、おおむね平穏のうちに過ぎてきたものであるが、これは、被控訴人が隠忍自重し、控訴人の不貞行為に対する強い批難を差し控えてきたことによるもので、被控訴人が控訴人との幸福な婚姻生活の継続を望んでいたことは、容易に推認し得るところであり、控訴人は、被控訴人が、真実離婚する意思があったわけではなく過去の不貞行為に加えて、又もやE女との不貞を疑わしめる行為に出たことに抗議し、その反省を促す趣旨で離婚届書を突きつけたものであることを知りながら、これを口実として同女と同居し、離婚届書を提出したもので、本件離婚は、控訴人の度重なる不貞行為と被控訴人の思慮浅い軽卒な言辞に乗じた控訴人の独善的行動に原因があり、控訴人の責に帰すべき事由によるものと認めるのが相当である。したがって、控訴人には、被控訴人に対し、その精神的損害の賠償として、慰藉料を支払うべき義務があるものというべく、前認定の事実関係を考慮すれば慰藉料の額は三〇〇万円を相当とする。

三  以上のとおりであるから、被控訴人の本訴請求は、金三〇〇万円とこれに対する離婚の翌日である昭和四九年一一月二六日以降完済に至るまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度において理由があるからこれを認容し、その余は棄却すべきものといわなければならない。

よって、訴訟費用の負担につき民訴法九六条、八九条、九二条、仮執行宣言につき同法一九六条を各適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 田宮重男 裁判官 新田圭一 真榮田哲)

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